400年以上にわたる観音寺の歴史と、地域における役割についてご説明いたします。
当山「八幡山金剛法院観音寺」の創建年代については諸説あり、正確な年代は定まっていません。当山には天正十八年(1590)祐覺和上によって開基されたとの一伝がありますが、文政十三年(1830)に完成した『新編武蔵風土記稿』に「天正十八年ノ開基ナル由寺僧ノ伝エナリ。サレド当寺ノ過去帳ニ権大僧都祐覺天正十壬午年十二月十七日ト云ヲ載タリ。モシコノ人ナド開山ナランニハ寺僧ノ伝ヘシ年代モ極メテ疑ウベシ。」と記されていることから、開山は少なくとも天正十年(1582)以前になると予測されます。
また、後述するように当山鎮守の八幡宮(現・篠原八幡神社)における別当寺としての性格も考慮する必要があります。八幡宮の創建時期は鎌倉期と推察されますから、観音寺の歴史も天正を遡ることも予見できます。近代に出版された『神奈川県神社誌』には、八幡宮創建時の建久三年(1192)には観音寺が存在していたという記録もあるほどです。しかし、残念なことに創建年代を確定させる文書を欠いているのが実状であります。
創建時から江戸時代を通じて別当寺としての役割が大きかったと思われます。山号が八幡山(はちまんざん)と定められているのはその証です。また当山が「ただたのむ この八幡なる観世音 黒き雲散れ 慈悲の光に」と詠まれているのも八幡宮との深い関係性を示しています。
わが国では仏教請来と共に日本の神々との融合が生れます。殊に平安期には真言宗と天台宗が中心となって仏と神々との関係をゆるぎなきものとしました。日本の神々は、様々な超人的な能力を有し、六道(輪廻する衆生の世界)の最高位にあるとはいえ、人間と同じように苦しみに悩む存在です。したがって、仏教が伝来したあとでは、神々は仏教に帰依することによって天界からの解脱を目指す、すなわち「神身離脱」を目指すようになりました。それに伴い、ほとんどの主要な神社には神に仏の法を説き、供養するための別当寺(神宮寺)が設けられることになりました。
その一方で、神々もまた仏法と寺院を守護するいわゆる「護法善神」としての役割を強く持つようになり、寺院の中に鎮守として社が建てられるなど、仏教から手厚い供養を受けてゆくこととなりました。
これが神仏習合といわれるもので、その後展開される日本文化、精神文化の源泉となってゆきます。古くからある神社を調べると必ず仏教との接点があるのはそのためです。観音寺もその例外ではなく、この神仏習合という豊かな恩恵に浴していました。観音寺は八幡大菩薩を供養するための別当寺として神々と接する一方、境内に稲荷大明神を勧請し、寺域を守護されていたのです。
観音寺が供養していた八百万の神々の中でも八幡様はとりわけ仏教との関わりが深い神です。その名は「八幡大菩薩」と称しますが、八幡は仏教が説く八正道(はっしょうどう)を旗印にしていることに由来し、神でありながらも仏への帰依篤き故に大菩薩の尊号があります。またその姿も出家者の如きいでたちであります。当山に伝わる八幡像も世に言う「僧形八幡(そうぎょうはちまん)」の流れに入ります。 現在の観音寺と八幡宮がある小高い一山は、創建以降、仏と神のいます山としての聖域であったはずです。今では想像すら難しいですが、自然豊な里山がそこにあったことでしょう。そのいにしえを大切にして、この一帯を「八幡山」と称し続けていこうと思います。
江戸時代には幕府の政策により檀家制度が確立いたします。おそらく江戸期以前は寺領が主に寺の運営に資していましたから、これに檀家制度が加わって観音寺の維持がなされました。但し檀家数はそれほどの数ではなかったようです。当時の篠原村に限らず、比較的広範囲に信徒の講社が形成されていた記録もありますので、地域社会に一定の影響力を持ち、行政面での役割も担っておりました。またこの頃には寺院の本末関係も確立し、当山は東神奈川の金蔵院を本寺として真言宗の修行や教育を受けていたようです。江戸時代の仏教事情は、まだまだ明らかにされていないのが実状であります。
幕末から明治にかけて、日本中に仏教危機の嵐が吹き荒れます。国学の台頭、国家神道という論理がこれまでの日本精神文化を自ら衰弱させる道を択ぶことになります。それは明治新政府の発足と共に始まりました。即ち明治初頭の神仏分離、廃仏毀釈の悪政です。この愚挙は日本文化史上、また日本政治史上にも悲しいばかりの汚点です。期間的には数年間でしたが日本各地でなされた惨劇は、致命的な傷を残しました。壱千年以上に亘って培われた神仏融和の精神性は、一部の権力者によってないがしろにされたのです。この傷は未だに癒えておりません。日本一の経済力、影響力も兼ね備えた大寺院であった奈良の興福寺が廃絶に追い込まれたのもこの時です。鎌倉の八幡様のかずら段からお寺の甍が失われたのもその時です。そして観音寺もまた鎮守である八幡社から切り離され、上地令によって寺領を失いました。観音寺創建以来、初めての危機です。断片的な記録では、この頃には観音寺には正住する住職を欠いています。この不吉なる風はさら吹き続けて、明治15年ついに観音寺全山焼失という悲劇が起こります。この火災の原因等の詳細は全く不詳です。
この明治期から大正期、そして昭和期にかけて代々の観音寺住職はたいへんなご苦労をされました。それはゆるぎなき真言宗の伝統を護持することであり、それが社会の安寧に寄与することでもありました。大正期に晋山された隆超和上は、寺の再興に尽力されて仮本堂と庫裏の建立を成し遂げました。その建物は平成の初期まで現存しましたが、老朽化に伴いその役目を終えました。昭和20年4月にはかの川崎大師平間寺の御本尊「厄除け弘法大師像」が当山に避難されました。時の住職隆悦和上は秘密裡に境内の一画に専用の横穴を掘り、そこに御本尊ご宝物を丁重に安置し、川崎大空襲の難を逃れたと聞きます。因みにその時の川崎大師ご貫首様が隆超和上でございました。観音寺を避難先に選ばれたのは、ご貫首様が若き日を過ごした観音寺のよき思い出があったからでしょうか。
昭和29年に晋山された隆侃和上は、この隆超、隆悦両和上の遺志を継いで観音寺再興の任にあたり、苦節20数年して遂に現今の本堂を建立、境内墓地等の整備を進めて明治以降衰退した観音寺の寺運を復興されました。よって当山では隆侃和上を「中興第1世」と称してその高徳を顕彰しております。
その後平成12年に晋山しました現住職は不動堂の再建、六地蔵堂の建立、遍照光明墓の新設を進め、平成25年には講堂(サマヤホール)を建立、本来あるべき観音寺の寺観整備に微力を尽くしております。また檀信徒はもとより多くの方々に仏教を、真言宗をお伝えしたいと願って様々な活動を模索し展開しております。伝統に基づいた新たなる仏教の歩みをこの八幡山から進めたいと望んでいます。